はじめに
遺伝子発現制御とは
細胞の性質は遺伝子の発現量で決まる
皆さんもご存じの通り、生物の設計図である遺伝情報は、DNAの塩基配列という形で蓄えられています。
私たちヒトなどの多細胞生物は、性質や機能が異なるたくさんの種類の細胞が集まってできていますが、すべての体細胞は基本的に同じ配列のDNAを持っています。
なぜ同じ設計図から異なる細胞ができるかというと、DNAに書き込まれている(もうちょっと専門的にはエンコードされているといいます)遺伝情報のうち、使われているものとそうでないものが細胞腫ごとに違うからです。
遺伝情報がどのように使われるかというと、「転写」(transcription)という過程によって、DNAの塩基配列と同じ配列を持つ(正確には相補的な配列を持つ)RNAが合成されます。
RNAは「翻訳」(translation)という過程によってタンパク質が合成されます。
合成されたタンパク質が様々な細胞機能を実現するメインプレイヤーとなります。
遺伝情報の単位を遺伝子といい、基本的には、ひとつの遺伝子に対応する塩基配列はひとつのタンパク質のアミノ酸配列に対応すると考えることにしましょう。
実際には、核を持たないバクテリアなどの原核生物では、オペロンと呼ばれる、関連する数種類のタンパク質に対応する塩基配列がひとつの遺伝子を構成することもありますし、私たちヒトのように核を持つ生物では、イントロンと呼ばれる余計な配列がタンパク質に対応する配列の間に挟まっていることもあるのですが、このようなことを複雑にするものは後で考えましょう。
このように、転写と翻訳を経てタンパク質が合成され、遺伝子の機能が実現されることを遺伝子発現といいます。
私は、細胞がそれぞれの遺伝子の活性を制御するメカニズムを理論物理学を使って明らかにする研究を行っています。
ヒトゲノム計画と21世紀の分子生物学
みなさん、ヒトゲノム計画をご存じでしょうか?
DNAの二重らせんと転写・翻訳による遺伝子発現の発見から、生物の設計図であるDNAの塩基配列をすべて読むことができれば、その生物のことがすべてわかるのではないかと期待されていました。
20世紀終わりに行われたヒトゲノム計画では、ヒトのDNAの塩基配列を網羅的に解析されました。
しかし、ヒトのDNAのうち、タンパク質合成に使われる部分はほんの一部で、それ以外は何に使われているよくわからない配列ばかりでした。
しかも、ヒトの遺伝子の塩基配列は、マウスの遺伝子の塩基配列とほとんど同じだったそうです。
そのため、塩基配列を読んでも、なぜヒトとマウスが違うのかという疑問に答えられなかったのです。
DNAが生物の情報をもっているというのはおそらく正しいのですが、なぜほとんど同じ塩基配列を持つ遺伝子セットから全く異なる生物ができるのでしょうか?
21世紀に入ってからは、その理由を追及する様々な研究が行われてきました。
転写はどのように起こるか
前述の通り、遺伝子発現は、DNAの塩基配列の一部と同じ配列をもつ(正確には相補的な配列を持つ)RNAを合成する過程である転写から始まります。
転写だけでなく、翻訳を含むその後の過程においても制御を受けます。
しかし、転写以降の(下流の)プロセスに関しては実験事実がまだ少なく、理論的なアプローチを試みるにしてもだいぶ当てずっぽうになってしまいます。
自分の研究を転写制御といわず、遺伝子制御と呼んでいるのは、後々下流のプロセスの制御に関しても理論化したいからなのですが、これまでの研究のほとんどは転写に注目しています。
DNAには、転写を開始開始する役割がある配列であるプロモータと転写を終了する役割がある配列であるターミネータなどの「制御配列」があります。
プロモータとターミネータの間の塩基配列が1つのタンパク質(遺伝子)に対応しています(転写ユニットといわれることもあります)。
RNAの合成のメインプレイヤーは、RNAポリメラーゼ(RNAP)という酵素です。
RNAPはプロモータにつくと、DNAの二重らせんをほどきます。
むき出しになったDNAの塩基には、対応するRNAのユニットであるヌクレオシド三リン酸(NTP)がつきます。
RNAPは、プロモータからターミネータまで移動しながら、DNAの塩基についたNTPを順番につないでいくので、相補的な配列をもつRNAが合成されるのです。
バクテリアの転写はこれでほぼ話は終わりなのですが、真核生物の転写はかなり複雑です。
それについてはおいおい解説していくことにしましょう。
遺伝子発現制御の機構を物理学で明らかにする
ソフトマターとは
ここで私のバックグラウンドであるソフトマター物理学についてご紹介させていただきます。
古来より、物理学は、分子が完全にばらばらの状態である気体や、分子が完全にそろっている固体など、極端な物質を扱うことが得意でした。
ソフトマター物理は、高分子や液晶、コロイドなどの、完全にばらばらという訳でもないが、完全にそろっている訳でもないような物質の構造、運動、性質を理解するための一般法則を明らかにする学問です。
高分子は同じユニットがつながった分子のことで、ゴムやプラスチックは高分子からできています。
液晶の1番簡単な例は、棒状の分子から形成されているもので、熱運動によって分子の位置はばらばらですが、分子の向き(配向)はそろっています。
電圧を加えて液晶の向きを制御することによって、光の偏向を制御しているのが、皆さんがよく使っている(使っていた?)液晶ディスプレイです。
コロイドは、液体の中に固体、または、別の液体の粒子が多数分散した系で、食品や化粧品などによく使われます。
界面活性剤は、水に溶かすとミセルを形成したり、水と油の混合系では、液滴の界面に集まってエマルションを形成したりします。
ミセルやエマルションなどを会合性コロイドと呼ぶこともあります。
ソフトマターは、
・電圧などの刺激に対して容易に変形する。
・多数の分子が協調して運動する
・多数の分子が集まって集合体を形成したり秩序を形成したりする
などの特徴があります。
これらの特徴を全部満たさなければソフトマターではないという訳ではありませんし、ソフトマターの概念も年々拡張し続けられているため、上記の紹介はやや古典的なのですが、基本的にはこのような物質群だと思っていただいて大丈夫だと思います。
物質科学の観点からはDNA、RNA、タンパク質はソフトマター
これまでの説明でもうお気づきだと思いますが、物質科学の観点からは、DNA、RNA、タンパク質はソフトマターに分類される物質です。
従来のソフトマター物理学の研究の多くは、熱平衡状態の系を対象としていました。
熱平衡状態とは、例えば、ゲノムDNAと塩だけの水溶液を作ってずっと放っておいたときに実現される静的な状態です。
読んで字のごとしですが、平衡状態からずれた動的な状態を非平衡状態といいます。
核内の物質は、一般的には、生化学反応やRNAPなどの分子モータによって非平衡状態になっているので、従来のソフトマター物理をそのまま使うことはできないのですが、射程圏内にあります。
ゲノムDNAやRNAの構造や運動がソフトマター物理学の延長でわかるとして、それがなぜ遺伝子発現制御の機構を調べるのに役に立つのでしょうか。
このものがたりで語りたいこと
私は2015年に遺伝子発現制御の研究を始めましたが、それからも驚くような新事実がつぎつぎと報告され、我々のゲノムDNAの構造や機能に関する考え方が徐々に深まってきました。
この「遺伝子発現制御ものがたり」では、その中でも大きな出来事を紹介するだけでなく、当時の状況や私が何を考えてどのような研究をしたかなどについてもお話ししたいと思います。
ものがたりとしても楽しく読めるようにしたいと思ってかきましたが、これから研究者を目指している若い方にも参考になればいいなと思っています。
