細胞膜の弾性力学のパイオニアーWolfgang Helfrich
はじめに
細胞の形を物理する
単細胞生物はそれ自体が1つの細胞であり、多細胞生成物は多くの細胞から構成されています。
これらの細胞は様々な形をとっています。
例えば、赤血球は、中央が凹んだ円盤状の形状をしていますよね。
これらの細胞は、細胞膜という膜で覆われています。
その膜が作る形が分かれば、細胞の形ができるメカニズムの解明が期待できます。
前の記事で、液晶の配向ひずみによって蓄えられるエネルギーであるフランクの自由エネルギーの話をしました。
液晶の弾性理論をヒントに、細胞膜の形を決定する理論を作った理論物理学者がいます。
Wolfgang Helfrich(1932-2025)です。
人物像
Netsさん、Weiklさん、欧陽鐘燦(Zhong-Can Ou-Yang)先生が、Helfrich先生の追悼記事を書かれています[1,2]。
まだだいぶ高価ですが、現在は、有機ELディスプレイが商用化されています。
英語では、OLED(Organic Light Emitting Diode)と言いますね。
その駆動原理であるエレクトロルミネッセンス(EL)現象は、絶縁膜の劣化の前駆現象に端を発すると学生の時に習いましたが、残念ながら出典はわかりません。。。
発光デバイスとしての研究は、アントラセンという分子の結晶に高電圧をかけてEL現象を観察した1960年のPopeらの研究にさかのぼります[3]。
Helrichは、前半のキャリアで、電極を工夫して、10マイクロアンペアまでの電流を流すことに成功し、アントラセン結晶に流れる電流が空間電荷制限電流(Space Charge Limited Current)というものであることを発見しました。
現在の多層構造になるのは、もっと後の話です。
1967年から液晶の分野に移り、1970年には初めての液晶ディスプレイを作りました。
現在使われているディスプレイ技術の両方に深くかかわっているのですね。
細胞膜は、脂質の二重膜を基礎構造としています。
1973年には、脂質膜と液晶の共通の本質を見出し、脂質膜の力学理論を構築しました。
研究のスタイル
私はHelfrich先生にお会いしたことはありません。
しかし、Helfrich先生に影響を受けた多くの物理学者に指導を受けたり、共同研究をしたことがあります。
とはいえ、彼の人柄や考え方について伺ったことはありません。
また、追悼記事にもほとんど書かれていません[1,2]。
どのようなきっかけで液晶と脂質膜が結びついたのか、非常に興味があるところです。
アントラセン結晶の電気伝導
オーミック接続とショットキー接続
電子は負の電荷を持ちと原子核は正の電荷を持つため、電気的に中性になっている材料を考えましょう。
そこから電子を1つとると、とった位置での原子核の電荷が余ってしまいます。
電場を加えると、電子が抜けた穴(余った電荷)の位置が移動します。
電場によって、近くの電子が最初の穴に移動しますが、移動もとに新しい穴ができるので、穴が移動したように見えるのです。
この穴は正電荷の粒子の様にふるまうので、それをホールと名付けます。
本当は動かない原子核の電荷と動く電子がたくさんあるのですが、全部考えると大変なので、原子核と電子の電荷が打ち消し合って中性化された状態を基準にとって考えようということです。
固体中の電気伝導は、多くの場合、負電荷を持った電子と正電荷を持ったホールが担います。
電気伝導を担う粒子をキャリアと言います。
アントラセン結晶に電流を流そうとすると、金属電極を付けて、そこに電圧をかけなくてはなりません。
一般的に、二種の材料を接触させると、それぞれのキャリアのエネルギーが異なるので、そのエネルギー差を埋めるようにキャリアが移動します。
その結果、界面を移動するキャリアに対して障壁ができる場合(ショットキー接続)とできない場合(オーミック接続)があります。
アントラセンのEL現象を最初に発見したPopeの論文では十分なオーミック接続が取れず、十分な電流を流すことができませんでした[3]。
Helfrichの論文では、電極を工夫して(アントラセンのイオンを使う)オーミック接続を実現し、十分な電流を流せるようにしました[4]。
空間電荷制限電流(Space Charge Limited Current)
材料内の動けるキャリアを内在キャリアと言います。
内在キャリアを持つ材料を伝導体(electrical conductor)と言い、内在キャリアを持たない材料が絶縁体(electrical insulator)と言います。
金属電極は、内在キャリアが豊富な伝導体です。
一方、アントラセン結晶は、内在キャリアの無い絶縁体です。
絶縁体は、電気を全く通さない材料と理解されている方もいらっしゃるかと思います。
しかし、実際には、絶縁材料に使われているものに電圧をかけると、電流が流れたりします。
ではなぜアントラセン結晶のような絶縁体に電流が流れるのでしょうか?
それは、加えた電圧によって、電極からアントラセン結晶にキャリアが注入されるからです。
外部からキャリアが注入すると、アントラセン結晶が帯電します。
この過剰電荷を空間電荷(space charge)と言います。
空間電荷から発生する電場は、外から加えた電場を少し緩衝(制限)するので、このような電流を空間電荷制限電流(Space Charge Limited Current)と言います。
導電体を流れる電流の大きさは、加えた電圧に比例します。
一方、空間電荷制限電流は、加えた電圧の自乗に比例します。
Helfrichは、アントラセン結晶を流れる電流と加えた電圧の関係を実験的に測定することにより、この材料を流れる電流が空間電荷制限電流であると結論付けています。
絶縁体とはいかに?
絶縁体に電流が流れるのなら、「絶縁体とはいかに?」と思われた方もいらっしゃると思います。
Helfrichが書けている電圧は、100-10000 V程度(乾電池の100-1000倍程度の電圧)です。
最強の絶縁体である真空でもこれくらい電圧をかけると、電極から電子が飛び出すので(陰極線)、まあ、納得という感じでしょう。
ちなみに、概念として、全く電流が流れない材料を完全絶縁体と言います。
たまに、「完全」が省略されるので、混乱の原因になります。
逆に、抵抗ゼロで電流が流れる材料を完全導体と言います。
こちらも、たまに「完全」が省略されるので、混乱の原因となります。
ただ、完全絶縁体はあくまでも理想化であって、実際に使われている絶縁材料は電圧をかけすぎると電流が流れてしまうのです。
液晶ディスプレイの開発
液晶とは
以前の記事で、液晶について説明したのですが、ここでも簡単に復習しましょう。
高校の化学で、物質の三態を習ったことを覚えている方もいらっしゃると思います。
多くの物質は、温度や圧力によって、気体、液体、固体の三状態に変化します。
棒状や円盤状の分子は、液体と固体の間に、その中間の状態である液晶を取ることがあります。
液体では、熱運動によって、分子の位置も向きもバラバラで、ランダムに運動しています。
固体では、分子の位置も向きもそろっています。
液晶と一言で言っても、今では様々な状態の総称となっています。
とはいえ、いちばん基本的な構造は、ネマティック相と呼ばれるもので、分子の位置は液体と同様、熱運動によってバラバラに運動しているのですが、向きがそろっている状態です。
私の知る限り、液晶状態を取る物質は、必ずネマティック相を持ちます。
フランクの自由エネルギー
端のない無限に大きい液晶系があったとしたとき、熱力学的に一番安定な構造は、分子が一様に配向した状態です。
局所的な分子の平均は意向をダイレクタというベクトルで表します。
一般的には、ダイレクタは位置の関数なのですが、熱力学的に一番安定な状態では、ダイレクタは位置によらず一定ということです。
しかし、実際の実験や液晶ディスプレイのピクセルでは、液晶は有限の空間に封入されます。
固体表面を布でこすると、表面の液晶の向きを一方向に並べることができることが知られています(ラビング)。
なぜ表面の液晶を並べることができるのかということは、諸説ありますが、皆が納得する説明はまだありません。
学生の時に、私の同期がこの問題に実験的手法で取り組んでいました。
分かっていなくても、流行りが過ぎるとみんな関心がなくなってふりかえらなくなってしまうことって、よくあるんですよね。
しかも、研究費の申請書を書いたとしても、審査委員が「重要な問題」と判断しなければ、採択されませんので、研究を続けるのもままなりません。
まあ、いつまでもやっていてもしょうがない研究もありますが、時間を必要とする研究もありますので、難しいところです。
話が脱線しましたが、表面をこすると液晶が一方向に並びます。
例えば、片方の端の液晶をあるほうこうに向けて、もう片方の端の液晶をそれと90度傾いた方向に向けると、その間の液晶は一様な方向を向くことができなくなります。
それを数学的に表すとすると、ダイレクタが空間的に変化することになります。
液晶が一様な向きからずれることを配向ひずみと言います。
液晶に配向ひずみが生じた時、最安定な状態からどれくらい不安定になるかということを表した量を弾性自由エネルギーと言います。
液晶の弾性自由エネルギーは、F. C. Frankによって導出され、
という形をしています(以前の記事)。
左から、スプレー(広がり)、ツイスト(ねじれ)、ベンド(曲げ)による変形モードで蓄えられるエネルギーを表します。

ツイストネマティック
Helfrichが開発した液晶ディスプレイは、ツイストネマティック(TN)という方式です。
この方式では、片方の表面(z=0にある表面)の液晶を一方向(この方向をx方向とします)に、もう片方の表面(z=Lにある表面)を90度ずれた方向(この方向をy方向とします)に向けるような表面処理を施したセルを使います。
セル内の液晶の配向は、この境界条件を満たしながらフランクの自由エネルギーを最小化するように決まります。
その結果、左の図のように、液晶の向きはツイスト変形することになります。

TNモードでは、それぞれの表面での液晶の向きと平行な偏向の光のみを通すように偏光板を両端に配置します(左図)。
z=0にある表面からz方向に光を入射したとすると、入り口の偏光板によってx方向の偏向の光だけが透過します。
z=Lにある表面から光が出ていくわけですが、こちらの偏光板ではy方向の偏向の光しか通しません。
液晶がないとすると、光が出てこない偏光板の配置です。
液晶では分子の向きがダイレクタ方向にそろっているため、ダイレクタ方向とそれと垂直な方向で屈折率が異なります。
この液晶の屈折率の異方性とツイスト変形のために、光がz方向に進むにつれて偏向方向が回転し、セルから光が出てきます。
z方向にある程度強い電場を加えると、液晶は電場の方向にそろいます。
すると、液晶は光の偏向と垂直な方向を向いてしまうので、偏向方向は回転せず、光が出てこなくなります。
そう、ツイストネマティック方式ですと、電場をかけないと光が出てきて、電場をかけると光が出てこなくなるわけですね。
この作用によって光のON/OFFを切り替えることにより画像を出力するのが液晶ディスプレイです。
電場を加えると液晶がその方向にそろうことについても、フレデリクス転移という面白い物理があります。
それについてはいずれ別の記事でお話ししたいと思います。
脂質二重膜の曲率弾性力学
両親媒性分子の自己組織化
細胞膜の主な構成分子の1つに脂質があります。
脂質は、疎水性を持つ2本のアシル鎖(テイル)がフォスファチジルコリンなどの親水性を持つ官能基(ヘッド)に結合した分子構造を持っています。
疎水性は水分子と反発する性質で、親水性は水分子と親和性がある性質です。
ちなみに、脂質はキラル分子の1つであり、2本のアシル基とフォスファチジルコリンが結合する炭素がその原因となっています(キラル分子に関しては以前の記事参照)。
脂質は、疎水性を持つアルキル鎖(テイル)1本が親水基を持つ官能基に結合した脂肪酸から合成されます。
脂質や脂肪酸のように、疎水基と親水基が化学結合してできた分子を両親媒性分子と言います。
両親媒性分子は、水と空気の界面(あるいは、水と油の界面)に集まり、界面張力を下げるため、界面活性剤ともよばれます。
両親媒性分子は、少量ですが水に溶けます。
両親媒性分子は、水と非常に異なる相互作用を示す部分が化学結合した構造を持つため、水中でひとりでに秩序構造を形成(自己組織化)します。
ただし、しきい値(臨界ミセル濃度とよばれる)以上の濃度が必要になります。
形成される構造は、両親媒性分子の濃度やテイルとヘッドの体積比などに依存して変わります。
脂質は、疎水基であるテイルをお互いに向けた二層の膜である脂質二重膜(lipid bilayer membrane)を形成します。
脂質二重膜が閉殻形状を取ったものをベシクル(vesicle)、または、リポソーム(liposome)と呼びます。
細胞膜の流動モザイクモデル
これからは、細胞膜の基礎構造が脂質二重膜であること、その構造がスメクチックAと呼ばれる液晶と類似性があること、それをもとにHelfrichが構築した細胞膜の力学モデル、この力学モデルが赤血球の構造を解に含んでいることを書きたいのですが、それは次のアップデートの時にでも書かせていただきます。
参考文献
1.R. Nets and T. Weikl, “Obituary for Prof. Dr. Wolfgang Helfrich”, Friei Universitat Berlin.
https://www.physik.fu-berlin.de/en/fachbereich/nachruf/2025-wolfgang-helfrich.html
2.Z. C. Ou-Yang, “Obituary—Prof. Dr. Wolfgang Helfrich (1932–2025)”, MDPI.
https://www.mdpi.com/news/13623
3.H. Kallman and M. Pope, “Positive hall injection into organic crystals”, J. Chem. Phys., 32: 300–301 (1960). doi: https://doi.org/10.1063/1.1700925
4.W. Helfrich and W. G. Schneider, “Recombination radiation in anthracene crystals”, Phys. Rev. Lett., 14: 229-231 (1965). doi: https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.14.229
